活版体験
ツイッターで続けている140字小説、はじめて一年をすぎ、そろそろ200になろうとしています。最初はなんとなくひとつ思いついて「その1」とつけて投稿しただけで、こんなに続くとは思ってませんでした。10くらいまでかと(笑)。続き物ではなく、1編ずつ完結した形です。
100あたりから、なにか物質にしたいと考えはじめました。そのとき漠然と、活版がいいなあ、と思いました。文字を物質としてなにかに植え込んでいく作業に憧れました。どれも140字ですので、14字×10行できれいな四角におさまるようにしたいなあ、と考えました。
そこで、まずは活版の工房・九ポ堂(http://www.kyupodo.com)さんにお願いして、140字小説入りの名刺を作っていただきました。それがなかなか好評でしたので、小説だけのバージョンを作ることになりました!前回のもの+4編で、計5種類です。11月の文学フリマで販売する予定です。
そして、先日、九ポ堂さんのご好意で活版体験もさせていただきました。今回作るカードの一部の活字を組み、印刷しました。ツイッターでも流しましたが、こちらでもまとめておきます。
実は九ポ堂さん、もともとはお祖父さまが引退後、趣味で活版印刷をはじめられたのだとか。それを受け継ぎ、現在は活版の工房として、ポストカードやさまざまな作品を作っていらっしゃいます。
九ポ堂さんの活字の棚です。こんなふうに活字が並んでます。個人の工房なので活字は少なめです。ひらがなだと「の」がたくさんありました。ばらで集めたものなので、同じ字でも少しずつ形がちがいます。活字で見ているときにはよくわからないのですが、印字してみると、ちがいがよくわかります。
棚から活字を拾ってきます。今回はすでにそろえてもらってました。
拾った活字を詰めていきます。
小説部分の出来上がり。
タイトルなどと合わせ、型に入れます!
これで刷ります!上の円盤にインクがのってます。組んだ活字は下に。
刷ってます!
欠けている活字を取り替えたり、薄い字があったら高さを調節するために活字(3ミリ四方くらい)の裏にテープを貼ったり、細かく調節していきます。
出来上がり。
60枚くらい自分で刷りました。活字を並べていくときも、刷るときも、手触りがあって、ものを作っている、という実感がありました。できあがったカードも、薄い紙なのに、重みや厚みを感じます。
文学フリマで販売予定ですので、いらした方は、ぜひお手に取ってご覧ください。ブースはイー19です。
九ポ堂さんもブースを出すそう。ご興味ある方は、こちらにもお運びくださいね!
■
夏休みが終わってしまいました!!!
休みだったのは娘だけで、わたし自身は休みじゃなかったはずなんですが、学校がなければ毎日朝早く起きろとか宿題しろとか早く寝ろとか言う必要も(そんなに)なく、そのせいでかなり気楽でのんびりしてしまい、蝉もみんみん鳴いてて、空も青くて、子どももだらだらしてるし。。。とこちらまですっかり夏休み気分を満喫してしまいました。
これからきりっとしなければ。。。
そんなこんなで、去年同じ時期に書いたエッセイのことを唐突に思い出し、アップすることにしました。
一年前の夏休みのお話です。
これを書いたときとは娘はまた様子がかなり変わっていて、子どもが小学生くらいまでは、こんなふうにどんどん変わっていくんだなあ、ふむふむ、と思ったりしました。
■中が空っぽ
夏休みがはじまり、小学一年生の娘は、毎日学校の水泳教室に通っている。どうしても水に顔をつけられなかったが、ゴーグルをつけたらいっぺんにできるようになった。帰ってくるなり、顔をつけると浮かぶんだよ、もうずっと浮かんでられるんだよ、石も拾えたよ、と興奮した口調で話し出し、とまらなくなった。いったんできるようになると、その後はゴーグルをはずしても大丈夫になった。ダンボの羽みたいなものだ。いっしょにプールに行くと、浮かぶこと自体が楽しくてたまらないようで、くりかえし浮かんだりもぐったりするうちに、けのびとばた足で三、四メートル進めるようになった。
泣きそうな顔で走って帰って来たこともある。道にミミズの死骸があったと言う。からからに乾いていて、中が空っぽだったんだよ、と叫んだ。中が部屋みたいにいくつかに分かれていて、で、空っぽなんだ。ほんとの空っぽなんだよ。怖いなら見なければいいのに、娘はミミズを見るとどうしてもくまなく観察してしまうらしい。よほど衝撃だったのだろう。人に会うとその話をしている。生きてくねくねしているものの正体が空っぽだったことが驚きだったのか。わたしだって驚いた。空っぽだったとは。死んで水分が抜けると、ただの筒になってしまうのか。
この季節、あちこちに死骸が落ちている。ミミズだけじゃない。セミにアブ、甲虫、カエル。家の近くの小山に生き物がたくさん住んでいるからだろう。 小さな森だが、あそこからいろいろやってくるんだな、と思う。地面や石を覆う苔もシダの巻いた芽もうつくしい。キノコや虫たちはかわいい。でも、怖いものもたくさんいる。ヘビも出る。わけのわからないとてつもなく長く細いものが石段に張り付いているのも見たことがある。雨上がりの駐車場にミミズのようなものが動いていて、よく見たらプラナリアだった、なんてこともあった。きっと、きれいと怖いはほんとは同じことなんだろう。死んでいると生きているも同じことなんだろう。
子どもが学校で育てていたアサガオもベランダに置かれている。朝晩水をやるたびに、よくのびるなあと思う。食べ物が腐ったり黴びたりするのも生き物の仕業だ。夏は目に見えない小さい生き物も活発になる。みんな活発に生きて、戦って、死んで行く。
夫がいろんな味の醤油を試したいというので、小さな醤油セットを買った。冷蔵庫のなかに醤油瓶がたくさん並んでいる。瓶のなかにはいまも酵母が生きているんだろうか。家族三人でそうめんを食べる。麺をつるつる食べながら、わたしたちも死んで乾涸びたら中が空っぽになるんだろうか、と思う。
お盆が明け、娘は十メートルくらい泳げるようになった。水底まで潜れる。背中で浮くこともできる。休みがはじまったときには水に顔をつけることもできなかったのに。夏はすごい。生きていることが目に見えるようだ。
初出 文學界2012年10月号
■
ずいぶん久しぶりになってしまいましたが、以前徳間書店さんの「子どもの本だより」という小冊子に掲載していただいたものをアップしようと思います。小冊子のときは字数の制限があり、書ききれないところもありましたので、加筆してあります。
■あまんきみこさんの「車のいろは空のいろ」のこと
最初にこの作品を読んだのは、小学校の国語の教科書だったでしょうか。連作のみっつつ目の「白いぼうし」が教科書に載っていたのです。主人公はタクシーの運転手松井さん。舞台は東京らしい町。そこに小さいけれど、不思議な出来事が起こるお話です。
松井さんがタクシーを運転していると、道路に白い帽子が落ちている。松井さんは車を降りて、その帽子を拾う。なかからモンシロチョウが飛び出してくる。松井さんは、帽子がそこにあったのは、落ちていたのではなく、子どもがチョウをつかまえるためだったと気づく。かわいそうに思って、チョウのかわりにそのとき持っていた故郷から送られてきた夏みかんを置いておく。車に戻って来ると女の子がうしろの座席に座っていて、「菜の花横町まで」と言う。車を出すと、男の子がお母さんを帽子のところまで引っ張っていくのとすれちがう。空き地の近くを通りかかったとき、うしろを見ると、女の子はいなくなっている……というお話です。
松井さんのいる世界は、どこにでもあるようなふつうの町です。松井さんもふつうの運転手さんです。わたしたちのいるこの場所のすぐ隣にあってもおかしくない。はじめてこの話を読んだとき、自分のいる場所が別の世界につながっているような感覚を覚え、夏みかんの匂いと、ひらひら舞うモンシロチョウ、白いぼうしと空き地のイメージが心に残りました。
それからいくつもあまんさんの本を読みました。大人になって、古本屋さんであまんさんの文庫を見つけて買い、もう一度読みました。はじめてひとりで暮らすようになったときのことでした。なつかしさでページを開いたのですが、読み始めてすぐにぽろぽろ泣いてしまいました。
たしか「天の町やなぎ通り」だったと思います。郵便屋さんが男の子と出会うお話です。男の子のお母さんは亡くなっていて、でも男の子はその意味をわかっていません。男の子の頼みで、郵便屋さんは男の子の手紙をお母さんに届けに行くのです。 郵便屋さんは大人だから、お母さんが死んでもう帰って来ないこともわかります。男の子の手紙を持ったまま、郵便屋さんは「天の町やなぎ通り」に着いてしまいます。そして、お母さんの住む家のポストにその手紙を入れるのです。
この物語のなかで、手紙を届けるのは郵便屋さんで、男の子ではありません。男の子はお母さんに会えないし、郵便屋さんも手紙をポストに入れるだけで、お母さんの顔を見ることはありません。けれども、手紙は着いた、と思うのです。郵便屋さんは大人です。男の子と郵便屋さんは同じ世界にいますが、見ている世界はちがうのです。そのふたつが短い物語のなかでふわっと重なって、物語が終わります。
わたしはそのとき、はじめてあまんさんの物語はこういうものだったのか、と悟ったような気がしました。あまんさんの物語のなかには、子どもの思いと大人の思いが重なるようにはいっていたのです。子どものときには気づかなかった大人の層にそのときはじめて触れたような気がしました。
次に本を開いたのは、手術のために入院したときでした。暇になるだろうからと思って、なぜかあまんさんの本を持って行ったのです。そのときもまた、読みながら泣いてしまいました。母と娘を描いた「うぬぼれ鏡」。人の孤独がやわらかく描かれた結末に息を呑み、しかしこの鏡がどこかで「おかあさんの目」のやさしい世界につながっていくのです。ひとりでありながら、おたがいにつながっているという不思議。
それから数年、子どもが生まれ、日々忙しく、あまんさんの本を広げることもありませんでした。でも、この原稿の依頼を受けたとき、あまんさんの作品にしよう、と思い、最初に読んだ「車のいろは空のいろ」を手に取りました。
四番目の「すずかけ通り三丁目」を読みはじめて、また涙が出てきました。戦争で失った子どもに会いにいくおばあさんの話です。「いいえ、運転手さん、むすこたちは何年たっても三歳なのです。母親のわたしだけが、年をとっていきます。でも、むすこを思うときだけは、ちゃんと、このわたしも、もとの若さにもどる気がするんですよ。……おもしろいものですね」。わたし自身が親になったからでしょうか、子どもを亡くしたおばあさんの心が深く刺さってきました。
大人の層のさらに奥に、おばあさんの層があったのです。あまんさんの物語には、こんなふうにいろんな世代の心が折り重なるように詰まっていて、年を経て読むと、また別の層が見えて来るのです。
でも……と、ふたたび思いました。子どものころのわたしは、あまんさんの物語のどこに惹かれていたのだろうか、と。あのときほんとうは、おはなしのなかに、ぼんやりと、そういう深い層が見えていたのではないか、と思うのです。なつかしいような怖いような、生まれる前の世界、死んだあとの世界とつながるような。そういうものがチョウの白い羽のようにひらひらと、心のなかにつかのま舞い、そこに惹かれていたのではないか、と。
あまんさんの作品はそういうわけで、子どもにはもちろん、大人の方にもぜひ読んでもらいたいなあ、と思います。
■
昨日巻いた連句をアップします。
帽子をかぶった大先輩の詩人がご縁で参加してくださいました。連句の座なので別名で、本名はないしょです!
フェリスの「ほしのたね」の学生さんから、いろいろな年代の人がいたので、バリエーションに富んだ一巻になりました。
「北へ向かう」から恋の座、「伯父の魂」までの流れがすばらしく、花の座も名句で、なかなかの傑作ではないか、と思っております。
困ってしまったのは、時事句のニホンカワウソ。はじめは「カワウソとツキノワグマが絶滅に」としていたのですが、ツキノワグマは「月」か、だとするとクマは冬だから、冬の月なのか、裏の月が冬の月なのはよしとして、表の月も一句あげて短句としているので、裏を二句あげてツキノワグマですませてしまうのも惜しかったので、クマをはずし、ニホンカワウソだけにすることに。その場では「さようならニホンカワウソ永遠に」としましたが、あまりにひどい(笑)ので、下に揚げた幻想の句に変更しました。
■半歌仙「詩人の帽子」 捌き ほしおさなえ
秋風に揺られ見知らぬ街に立つ 嘉子
詩人の帽子に爆ぜた草の実 さなえ
くたびれた季寄せの箱は冷ややかに ゆほ
役所の屋根に月触れる時 々
北へ向かう思いを捨てて道渡る 千秋
父の目尻に滲むやさしさ やん
「あいつにはやらん」ってわたしモノじゃない 々
粒だっていく柔らかき肌 嘉
三面鏡に拝む女の厄落とし 千
伯父の魂(みたま)が鳴らす風鈴 ゆ
まぼろしのニホンカワウソ暮らす場所 さ
葱白くなるところから切る ゆ
最寄り駅より徒歩二分冬の月 々
貝塚の上童(わらわ)遊べり 千
盃に満たされている清き水 嘉
流氷に乗り小びと旅する や
花咲くはこれから生きて向かう場所 ゆ
一族そろい凧あげている さ
2012年8月29日於大田文化の森
***
■
少し前に『ユリイカ』に発表した詩、『ユリイカ』編集部さんの許可をいただいて、こちらにもアップすることにしました。
久しぶりに書いた散文詩、かなり長いんですが、よかったらご覧ください!
■空に光る幾筋もの細い糸
ええ、そうですね、蛇口をひねりました、わたしも。たしかにひねりましたよ、でも、あんなことが起こるなんて、だれも思わないじゃないですか、ただ、わたしは水を出そうと思っただけなんですよ、そう、水を
出した手紙が戻って来ない。いっぱい出したはずなのに、一通も戻って来ないんだ。住所が間違っていたのかな? それとも宛名? 切手を貼り忘れたのかもしれない。それとも相手はわたしの言うことが気に入らなくて、それで返事を返してくれないのかも。ああ、あんなこと、書かなきゃよかった。みんな、わたしを嫌いになってしまったの? そうじゃなくて、ただみんな最初からわたしになんか関心がなかっただけ? 最初から見えてもいなかった? わたしなんていないのと同じ? ああ、それとも、封筒の色が相手の心を傷つけたの? 切手の貼り方が悪かったの?
いっぱい出したはずなのに。もう何年も出し続けているのに。一通くらい返事が来たっていいのに。それだけを待ってるのに。ずっとずっと返事を待っているのに。出したこと自体が間違いだったの? わたしなんかいなければよかったの? ただの草のように生えて枯れて、ふくらんで、そうしていればよかったの? だれも最初からわたしがいるなんて気づいてなかったの? そうなの? 間違っていたのは住所? 手紙? それともわたし? もしかしたら最初から手紙なんて出してなかったの? 手紙なんて書いてなかったの? それともわたしなんていなかったの? あ、ああ、空が真っ黒にかげって、
雷が鳴る
蛇口から世界が壊れていく、?????って?ばかりが続くメールを読み返して、電車の窓から外を眺めて、晴れていく空を眺めて、歩道橋を行く人たちを眺めて、ぴこぴこ動くゲームみたいな人々を見て、ああ、そういえば、むかしはわたしにも行く場所があったなあ、って、公園のブランコの柵とか、朝のゴミ捨て場とか、土まじりの匂いとか、そんなんじゃなくて、もっときらきらしたどっか。汗かいてスキップして焦って転んだり、一日じゅう蜂蜜みたいな色の空の下で走り回って、自分がきれいだと思ったり醜いと思ったり、人の髪の毛をうらやんだり、でもそんなのすべてちっちゃいことだったね。だってわたしたちって、どうせみんな死んじゃうんだから。
蛇口なんて何度もひねる、一日に何度もひねる、無限にひねれると思っている、だけど、そうじゃないんだ、ってあのときわかったんだよ、なんだって終わりはある、水にだって、蛇口にだって、世界にだって。
どれもこれも蛇口が壊れて、わたしたちはその日からずっと水浸しの家のなかにいます。だれかと通信したい、だれかと話したい、だれかとつながりたい、だれかと。だけどそれはもうすべて無理。どうやってもここから出られなくなってしまいました。部屋のなかにはわたしと、見たことのない変な人がふたりで、その人は、わたしはわたしじゃなくて、その人がほんとのわたしだ、って言うんですよ、だから、わたしはこうやって手紙を書きました、瓶に詰めて海に流せばいいんだって、もう何本もトイレから瓶を流そうとしたんです、だけど、流れていきません。蛇口が壊れてるんです。直してください、だれか。
虹が生えてきました。そう、あの日から生えてくるのは虹ばかり。もう壊れちゃったんだね。壊れているってわかってるから、涙腺が緩くなってしまってね。そうだねえ、人が一生懸命なのはうつくしいね、悲しいね、揺れる蜘蛛の糸のように、落ちていく花びらのように悲しいね。ただ疲れているんです。みんな手紙を待つことに疲れて、壊れた蛇口をぼんやりと眺めている。消えていくのは悲しいことじゃない、だけど怒りは感じるんです。だって、そうでしょう、なぜ手紙が一通もつかないんでしょう。こんにちは、だけでもいいんです、せめて、中身もなくていいから、
圧がかかる。虹がたくさん生えてきて、それを見るたびに自分が小さくなる。小さく小さく小さくなって、なくなっていく、消えていく。キノコのような朝でした。もう二度と揺れません、光りません、壊れません、でも、もう無理なんです。もう二度と蛇口をひねれない、だって、あのときのことを思い出すでしょう? ただ一度蛇口をひねっただけであんなことが起こるなんて。だれだってそう思っていたにちがいない。怪獣も円盤も爆弾もなかったのに、世界は少しずつ目減りしてく、だれかが罪を背負っても、世界を繕うことはできないって、
世界はいつだって手でさわれない。動かすことができない。最初からそこに世界なんてないから。見えているのは過ぎ去った映像だから。わたしたちは消えてしまった影だから。わたしたちは蛇口をひねり、指を静かにそこに浸す。赤い液体が流れ、蛇口から流れてきたのか、指が切れて血が流れているのか、わからなくなる、痛いのか痛くないのかわからなくなる、壊れたのは蛇口じゃなくて、わたしたちの皮なのかもしれない。全部あのとき終わったんだよ、終わったことを見ないようにして、木のまわりで鬼ごっこを続けていたんだよ、わたしたちは、日だまりの子どものように、幸福で、幸福であることが怖くて、そしてそれは、もう終わったんだ。
流れ落ちていく、ひとつひとつの小さなしずくの、そこに閉じ込められたわたしたちの小さな望み、もっと遠くへ、先へ、先へ、先へ。だけどそうやって蛇口ばかりをあちこちに植えて、それでなにをしようとしたのか、ああ、また雨が降って、そうやってただ濡れているだけで、わたしたちはただ濡れるだけで、なにもかもいなくなる。祖父の家に残っていたたくさんのアルバム、わたしの知らないたくさんの人、孫の写真に寄せた祖母の俳句、むかしの木の家の古い縁側、柿の木、団地の古い洗濯機、戦争に行った祖父によく笑う祖母。もうなにも残ってはいない。ブランコで笑う若いころの母、アメリカに魅せられた父。教会のある学校の、プラタナスの並木。川が流れ、わたしたちは歩いている。晴れやかな日のまぶしいうつくしい空の光、それを受けていたわたしたちの晴れがましい、輝かしい、なにか憧れのような、遠い先のことを思って、笑いながら、おびえながら、先へ、先へ、先へ、だけどああ、それも蛇口から流れて、
届かない、どこにも届かない、川を流れながら、わたしたちは涙をこぼす、そんなことをしたって、蛇口はもう壊れてしまったし、わたしたちは流れていくしかないし、それでも空はあんなに青くて、息が止まりそうなくらい青くて、あちこちからたくさん虹が生えて、だけどもう手紙は来ません、どこからも、あなたは忘れ去られて、先に行くのはあなたじゃない、そうやって振り落とされ、ただ雨のなかをびしょぬれになって、泥まみれになって、波の向こうとこっちの狭間で、小石のように、わたしたちは、蛇口が壊れているから、手紙は戻ってこないから、生えてくるのは虹ばかりで、むかしの人の嘆きばかりが聞こえて、わたしたちは溶けていくのかもしれない、
ぽつぽつと、わたしたちは流されて、がらがらと雷が鳴って、身体がいくつも打ち寄せられて、あれほど大切だったあれにもこれにも存在する意味なんてなかったんだ、って、なにもかも、形があろうとなかろうと、なにもかも壊れていくんだ、って、叫ぼうにももう喉も壊れていて、屋根もガラスもがたがたで、わたしたちには世界を描く力も、世界を見る力もなくて、網膜が灼けて、日の光を浴びながら細胞がひりひりと壊れていく、夏の砂浜で、土砂降りのなかで、走りながら、笑いながら、波が足下に寄せて引いて、太陽がまぶしくて、そんなあたりまえのことに胸を突かれて、無数の虹が生えています。茂って、茂って、なにも見えなくて、
遠くに小さい影が、揺れて、
バイバイ
(バイバイ)
また明日
(また明日)
夕暮れの坂に犬の声が響きます。わたしは子どもを迎えに駅に向かって歩いていきました。雷の音が遠ざかり、この先に待っているのが自分の子どもなのか、それともわたし自身なのかわからなくなって、わたしはどんどん早足になり、追い立てられるように走っていました、
空に大きな蛇口が浮かんで、わたしはあれに手が届かなかったけど、そしてだれもあれに触れることはできないけど、ただあれをひねることを夢見て、
雷雲がほどけて、今日も世界は完全に押し流されずにすみそうです。残念ながら世界をすべて塗り替える魔法はいまのところ見つからないようですが、なんとかつながったままでいます。ここは静かな廃墟などではなく、わたしたちはスーパーで野菜を買い、肉を買い、魚を買い、細かな数値を機械ではかり、仕事がないとぼやき、身近なだれかを憎み、 スマホの小さな画面を見つめ、だれにともなくつぶやいて、あるいは道で突然突っ込んできた車にはねられ、そうやって生きています。わたしたちの終末は終わりました。終末を淡い光のように思っていたけど、大きな段落にすぎなかったのです。わたしたちはいまも細い細い糸のようなものでようやくつながって、切れずにぶら下がっています。だから、
行きましょう。歩きましょう。ほころんでしまった映像をつなぎ合わせるのはもうやめましょう。ここが新たな土地なのです。小さな光がいくつも、地面のうえにきらめきます、ほつほつと、新しい、小さな光が、点滅して、
飛び立って行きます。細い細い蜘蛛の糸のような、それが空にかすかに光って、あの細いものをきれいだなと思って眺めていたときもありました。あれがそんなものだとは知らず、ただきれいなものと思って、憧れて、ぼんやりと眺めて。覚えていることができるでしょうか、わたしは、わたしがいたことを。ほら、空に光る幾筋もの細い糸、あれが手紙だった、いえ、ほんとうはわたし自身が手紙だったのだと思います。なにも書かれていなくても、切手が貼られていなくても、どこにも届かないとしても、やはりわたしたちは手紙なのです。だから、
行きましょう、
もう一度、空に光る、幾筋もの細い糸を見上げて、
***
■
昨日、地元の小学校の夏休み特別教室で、5、6年生4人と連句を巻きました!
句が出るのか心配していたのですが、みんなびっくりするほど上手で、いい句がたくさん出ました。
2時間のあいだに簡単な説明からスタート。
ルールは少しゆるめたものの、できるかぎり式目に合う形にしました。
おもしろかったのは「恋の座」。
「大人の連句だと、このへんで恋の句を出すんだよ」と持ちかけてみると、みんな???な表情で、まるで興味なし。
よって、恋はなしの1巻となりました。
かろうじてチョコと祖母で恋っぽい香りを出してみました(笑)。
10句で終わることも考えていたのですが、予想以上に早く展開したので、12句としました。
「十二調」という形式があったと思うのですが、わたしは巻いたことがなく、十二調の式目を満たしているかどうかわからないのと、小学生でもわかりやすい言葉ということで、形式名を「十二カ月」としてみました。
「句を作るのは楽しかったけど、むずかしかった」という皆さん。
でもみんなとても素敵な句でした。
「もっと小さい子でもいけるかな」ときくと、「4年生なら大丈夫だと思います!」という答えだったので、今度は4、5、6年でやってみようと思います。
「捌きもやってみたい」とのことだったので、ゆくゆくは小学生の捌きが誕生するかも。。。
それでは作品です。
■十二カ月「色とりどり」 捌(さばき) ほしおさなえ
青い空緑の葉っぱ夏の色 ながさよ
木もれ日さして汗流れてく 瑛
図工室色とりどりのオブジェ見て ウメキョ
次の作品楽しみだなあ KK92
月の下月見団子をほおばった ウメキョ
アポロのはたがおれてしまって 瑛
チョコレートピンクと黒のハーモニー ながさよ
オリンピックを待ちわびる祖母 さなえ
雪うさぎ次の朝には消えている ながさよ
今度クラスででかいの作ろう 瑛
つぼみがね変わっていくよ花たちに KK92
うぐいす楽しく歌っています ウメキョ
2012年7月27日 U小学校図工室
*5句目の「月見団子」と7句目の「チョコレート」が食べ物同士なのが気になっているのですが、月ロケットのアポロからチョコのアポロに変わる流れが楽しかったので、そのままにしました。
ほか、式目に沿ってないところがちょこっとありますが、お目こぼしのほどを!
■
7月3日、5日、6日の3日間、ツイッターで連句を巻きました。ツイッターで巻くのははじめての経験で、あたふたしたところもありましたが、なんとか半歌仙1巻を完成させることができました。
下に作品を発表します。
また、その日のログをせやなさん@seyanaaaaaaaがまとめてくださいました。こちらで投句されたものすべてを見ることができます。
連衆の数が多かったこともあり、そのときその流れのなかで取れなかったなかにも名句がたくさんありますので、ぜひこちらでお楽しみください。
第1回(7月3日)
http://togetter.com/li/332288
第2回(7月5日)
http://togetter.com/li/333235
第3回(7月6日)
http://togetter.com/li/334296
はじめは身の回りを繊細に詠んだ句が多かったのが、「パンダ号外」で外の風がはいって風通しがよくなり、恋を抜けるあたりから世界が広がって、さまざまな場所をめぐり、時間も越えた旅のような1巻になりました。
すばらしい発句をくださった東直子さん、ありがとうございました。
参加してくださった皆さん、見てくださった皆さん、どうもありがとうございました!
■半歌仙「パンダ号外」 捌 ほしおさなえ
夏雲のふくらむ朝や鳥放つ 直子
飛沫あげたるクロールの子ら さなえ
ピペットでことだまを吸う人がいて やん
はかりとられる風のいろなど そらた
ふろしきの中身は月の仄あかり ナヲコ
いちじく割れて新しい我 もいもい
蜩のゆくえ見つめる窓の先 由加
パンダ号外配られている 直子
もふもふの君の産毛をなぞりつつ やん
熱出した日にくれた水飴 ゆほ
ただとおくつらなっていく天のうえ 眠
北風揺れる月蝕の海 かつし
ジョバンニが齧った果実受け止めて こまお
雨傘の森駆ける学ラン ささのは
グラスにはあふれるほどのギムレット 紗都子
山間響く仔鹿呼ぶ声 みずき
花仰ぎこちらを向いてとせがむ稚児 渉
靴紐結びうららかな道 たま