夏休みが終わってしまいました!!!
休みだったのは娘だけで、わたし自身は休みじゃなかったはずなんですが、学校がなければ毎日朝早く起きろとか宿題しろとか早く寝ろとか言う必要も(そんなに)なく、そのせいでかなり気楽でのんびりしてしまい、蝉もみんみん鳴いてて、空も青くて、子どももだらだらしてるし。。。とこちらまですっかり夏休み気分を満喫してしまいました。
これからきりっとしなければ。。。


そんなこんなで、去年同じ時期に書いたエッセイのことを唐突に思い出し、アップすることにしました。
一年前の夏休みのお話です。
これを書いたときとは娘はまた様子がかなり変わっていて、子どもが小学生くらいまでは、こんなふうにどんどん変わっていくんだなあ、ふむふむ、と思ったりしました。



■中が空っぽ


 夏休みがはじまり、小学一年生の娘は、毎日学校の水泳教室に通っている。どうしても水に顔をつけられなかったが、ゴーグルをつけたらいっぺんにできるようになった。帰ってくるなり、顔をつけると浮かぶんだよ、もうずっと浮かんでられるんだよ、石も拾えたよ、と興奮した口調で話し出し、とまらなくなった。いったんできるようになると、その後はゴーグルをはずしても大丈夫になった。ダンボの羽みたいなものだ。いっしょにプールに行くと、浮かぶこと自体が楽しくてたまらないようで、くりかえし浮かんだりもぐったりするうちに、けのびとばた足で三、四メートル進めるようになった。
 泣きそうな顔で走って帰って来たこともある。道にミミズの死骸があったと言う。からからに乾いていて、中が空っぽだったんだよ、と叫んだ。中が部屋みたいにいくつかに分かれていて、で、空っぽなんだ。ほんとの空っぽなんだよ。怖いなら見なければいいのに、娘はミミズを見るとどうしてもくまなく観察してしまうらしい。よほど衝撃だったのだろう。人に会うとその話をしている。生きてくねくねしているものの正体が空っぽだったことが驚きだったのか。わたしだって驚いた。空っぽだったとは。死んで水分が抜けると、ただの筒になってしまうのか。
 この季節、あちこちに死骸が落ちている。ミミズだけじゃない。セミにアブ、甲虫、カエル。家の近くの小山に生き物がたくさん住んでいるからだろう。 小さな森だが、あそこからいろいろやってくるんだな、と思う。地面や石を覆う苔もシダの巻いた芽もうつくしい。キノコや虫たちはかわいい。でも、怖いものもたくさんいる。ヘビも出る。わけのわからないとてつもなく長く細いものが石段に張り付いているのも見たことがある。雨上がりの駐車場にミミズのようなものが動いていて、よく見たらプラナリアだった、なんてこともあった。きっと、きれいと怖いはほんとは同じことなんだろう。死んでいると生きているも同じことなんだろう。
 子どもが学校で育てていたアサガオもベランダに置かれている。朝晩水をやるたびに、よくのびるなあと思う。食べ物が腐ったり黴びたりするのも生き物の仕業だ。夏は目に見えない小さい生き物も活発になる。みんな活発に生きて、戦って、死んで行く。
 夫がいろんな味の醤油を試したいというので、小さな醤油セットを買った。冷蔵庫のなかに醤油瓶がたくさん並んでいる。瓶のなかにはいまも酵母が生きているんだろうか。家族三人でそうめんを食べる。麺をつるつる食べながら、わたしたちも死んで乾涸びたら中が空っぽになるんだろうか、と思う。
 お盆が明け、娘は十メートルくらい泳げるようになった。水底まで潜れる。背中で浮くこともできる。休みがはじまったときには水に顔をつけることもできなかったのに。夏はすごい。生きていることが目に見えるようだ。


初出 文學界2012年10月号